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めーるぼっくす 骨董市へ出かけよう
九十年代に入ってから、若い女性を中心にして、骨董やアンティークが静かな人気を呼んでいる。あちこちで催されている骨董市はどこも盛況だし、手軽な値段の古物を扱う店もよく見かけるようになった。
こうしたブームの背景には、新製品を次々と使い捨てていく消費文化への反省があるのだろうし、また時間の経過をたたえた自分だけの物を見つける楽しさに気づいた人がいるということでもあるのだろう。
骨董、と聞くとひどく高価なものを想像してしまうが、必ずしもそうとは限らない。フランス語では骨董は複数型でアンティキア、それほど古くはなく、まだ価値の定まっていないものをブロカントと呼ぶ。アメリカでもアンティークよりは新しく、まだ手軽に購入できる古物をコレクティブルと称するようになった。日本なら、さしずめ幕末から明治、そして昭和初期あたりの戦前のものというところだろうか。
とはいえ、明治時代も初期のものなら、すでに作られてから百年は経っていることになる。数千円で買えるものがまだまだ見つかるがそれなりに楽しいもので、明治期の伊万里の印判手の皿や大正期のガラス器など丈夫なうえに使い勝手もいいし、戦後の木製の家具などは安値でシッカリしたものが少くない。
明治から昭和初期のものは、日本が積極的に欧米化を目指していた時期だけに洋風のものが多いが、今日から見るとそうしたものでさえ日本的な趣(おもむき)をたたえていて、そのあたりは民族的なメンタリティに思いがけず触れるようで面白いものがある。作られた当時は洋風の洒落(しゃれ)た息吹きを伝えるものだった大正期のプレスガラスの皿の模様が、柿の実だったりすると、日本の果物が外国の青果店に並んでいるのを見つけたような愉しさがある。
古いものは出会ったときに手に入れ損(そこ)ねると、もう出会うことができない。食文化ジャーナリストとして活躍する友人の平松洋子さんが仕事で訪れた京都の骨董屋で白磁の壺に魅了され、その夜、宿で持参した本を読もうとしてもまるで集中できなくて、なぜだろうと考えてみたら、あの白磁が気になっているのだと気づいたと電話で話していた。翌朝、さっそく骨董屋へ。結局、彼女は別の白磁の壺を買ったらしいが、こうしたあれこれも、他に同じものがない骨董の楽しさの一端と言えるだろうか。
城戸朱理(詩人)
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