ニュース&トピックス
やすみじかん キラキラが欲しい頃
12月になると、というより最近では秋が深まってきたなと思う頃にはもう夜の街がライトアップされ始め、争うようにクリスマス気分を先取りしている。宗教的な意味合いはどこかに置き去りにして、寒さに暗く覆われがちな季節をとりあえず華やかに彩ってやり過ごそうとするかのような浮薄な気配が、私はけっこう嫌いじゃない。
それにしても、クリスマスイヴは恋人と過ごすもの、ということになったのはいったいいつからなんだろう。JRと山下達郎が犯人かもという気はするが、バブル期はシティホテルのばかみたいに高い料金設定の部屋が予約でいっぱいだったり、プレゼントを選ぶカップルでティファニーが大混雑したり、不思議なことになっていた。さすがに昨今は景気も悪いしそういう現象はないようだけど、恋人がいなければクリスマスはみじめで寂しいというプレッシャーは、もしかしたらいっそう大きくなっているんじゃないか。
考えてみれば、恋人がいてもいなくても自分が自分であることに変わりはないのだし、クリスマスやお正月やバレンタインを1人で過ごしたからってその人の値打ちが下がるわけじゃない。恋人がいないことを不自然であるかのように感じさせる今の風潮は、なんだか窮屈だ。がんばって仕事して、ちょっと疲れたからお気に入りの惣菜を買って帰って、1人で缶ビール飲みながら読みかけだったミステリーを読んだらすごく面白かった、みたいなイヴも、それはそれで素敵。生きている時間のなかに、小さくても温かく輝くものが確かに宿っている感じがする。そういうのって勝ち負けじゃない。
昔、クリスマスの数日前に母親が押入れから出してきた箱を嬉しそうに開けてみせたことがあった。中にはチープな金モールや星や銀の飾り玉が一山。6畳と4畳半のわが家にはクリスマスツリーなんてないのにどうすんだろこれ、と既に子ども期を脱しかけていた私はあきれ、結局それを飾ったかどうかも思い出せないのだが、小さなキラキラを1つずつ手にとって眺めていた母親のやけに華やいだ顔だけは覚えている。あのとき、彼女はまだ30代だったのだ。スイートルームから見える夜景やオープンハートのネックレスじゃなく(そもそもそれらはまだ存在してなかったけど)、役には立たないキラキラしたものが欲しい、そういうものが自分を支える年頃だったのかもしれないなと、今ならわかる。
川口晴美(詩人)
※ 営利、非営利、イントラネット等、目的や形態を問わず、本ウェブサイト内のコンテンツの無断転載を禁止します。