福山通運健康保険組合

福山通運健康保険組合

文字サイズ
  • 小
  • 中
  • 大

ニュース&トピックス

[2006/10/06] 
カレンダーのなかの季語 「銀杏の実」

東京・恵比寿駅から徒歩十分ほどの路地裏に、物を書く仲間たちと小さな事務所を開いたのは昭和六十年の冬だった。本通りから外れた道はくねくねと入り組み、私たちの事務所があるのはさらにそのどんづまりの一角。低い家屋が軒を並べる路地には「あのね横丁やりくり長屋」と懐かしいような語感の「愛称」がついていた。
 その事務所に通うようになった翌年の秋、路地にある大きなイチョウの大木が黄金色に染まった。狭い道のど真ん中に王様のように君臨する木は、両側の屋根、側溝、路地の敷石の上に毎朝おびただしい葉をまき散らした。台風が近づいていたのか、しきりに風が吹く日のこと、屋根瓦に小石が落ちるような乾いた音が響いた。驚いて外に出てみると、ゆさゆさと揺れる黄金色の枝から銀杏の実が無数にばらまかれているのだ。そしてあの臭い、特有の濃い腐臭が路地裏いっぱいに漂っていた。
 銀杏の実は他の果実に比べると、猛烈な腐臭によって損をしている。しかしこの路地の人々は、銀杏の実を愛していた。路地の人ばかりではなかった。風の強い日など、どこからかポリ袋を持った人々が現れ、しばし地面に体を預けるように銀杏拾いに精を出す。私もつい銀杏拾いに加わって、いつまでも指から抜けない臭いに閉口したものだった。
 臭いはともかく、外被を取り除かれ真っ白になった銀杏の実は愛らしい。これを火鉢の上の網に乗せ、ころころと転がしていた祖母の姿が、銀杏の降る秋になるたびに思い出された。
 エコロジーブームのせいか、昨今私の住む都心にも、朝早くポリ袋を持って歩く人の姿をみかけるようになった。この街に住むようになって二十年、やせっぽっちだった街路樹のイチョウも大木になり、しきりに銀杏の実を降らせるようになった。一方で恵比寿駅に近い路地にあったイチョウの大木は、私たちの事務所が転居したあと切り倒され、寄りそうように建っていた古い家屋の一群も姿を消した。

                         稲葉 真弓(作家)

※ 営利、非営利、イントラネット等、目的や形態を問わず、本ウェブサイト内のコンテンツの無断転載を禁止します。  

ページ先頭へ戻る