福山通運健康保険組合

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ニュース&トピックス

[2005/11/28] 
「本日無事」- 老人と老樹 -

 「実におだやかな立派な大往生でしたなあ」村田耕三医師は花で飾られた祭壇の写真の方に視線を送りながらいった。「あゝいう大往生が出来るというもの、あのご老人が明治、大正、昭和、平成と四代にわたる九十余年の長い歳月をご自分の考えを通して立派に生き抜いてこられたという証しでしょう」
 通夜の席であった。亡くなったのは平山吾助さんという91歳になる老人で、村田医師の患者であった。平山家は何町歩かの田畑と山林を持つこの辺りでも屈指の旧家である。吾助老人はもう還暦を過ぎる長男夫婦と三十歳になる孫息子と一緒に暮らしていたが、その高齢にもかかわらず実質的には依然として平山家の当主であった。自分で農作業に出るようなことは流石になかったが、ボケているところなどはいささかも感じられなかった。体も頑健であったが一月ほど前急に寝込んでしまい、村田医師の進める入院も頑固に断わるので往診を続けていたが点滴注射などあらゆる治療も拒んでロウソクの火が燃えつきるように亡くなった。大往生であった。
 亡くなったのが高齢者だということで、家族にも弔問客にもあまり悲しみの色はなかった。
 「それにしても吾助老人の頑固さというのは極めつきだったですなあ」と村田医師の隣りに坐っていた男の客がいった。老人とは同姓で遠縁にあたり市会議員をしていると、彼は村田医師に名刺を渡した。
 「あの頑固ぶりには私もホトホト泣かされましたですよ」市会議員氏はそういってその泣かされた話というのを始めた。
 去年の秋のことだが、吾助老人の家とは狭い道をへだてて西側の住宅に住んでいるという一人の男が老人を訪ねて来た。それがこの騒動の始まりであった。
 ずーと空地になっていたその場所に三年前に家を建てて移って来た丸山一男君というそのサラリーマン氏と吾助老人は面識がなかった。
 「突然のことで恐縮ですが、お宅の裏庭にある大きな木を伐っていただきたいと思いまして」初対面の吾助老人に向って丸山サラリーマン氏はそういって老人を面くらわせた。格別恐縮している風はなかった。
 吾助老人の家の北側には風除けの意味もあって立木が並んでいたが、その中でも西北の隅にある二本の欅の老樹は大木であった。樹齢は百年、いや吾助老人がもの心ついた頃にはすでに大木であったから二百年は越しているかも知れない。ていていとして空に聳え、その太さは根から立ち上がった辺りで大人がせいいっぱいに手を廻してもはるかに足りないほどである。サラリーマン氏はその木を伐ってくれというのだ。彼が話すその理由というのを聞いているうちに老人はだんだん腹が立って来た。
 「何しろひどい落葉ですからねェー」とサラリーマン氏はいった。木枯らしの季節になると欅の老樹はさかんに葉を落とす。雨のように降る落葉は当然のことに隣接しているサラリーマン氏の家の屋根や庭に降りつもって行く。庭の方は落葉たきという風情もあるからまだいいとして、屋根の方に降った落葉はやがて雨樋につまってしまい樋を腐らせてしまう。せっかく建てた家をそこねることになる。手まめに掃除すればいいかも知れないが、自分は高所恐怖症だし人を頼んでやってもらえば金が掛る。
 「隣人に迷惑を掛けないというのはエチケットというものでしょう」サラリーマン氏がそういったとき老人の怒りは爆発した。
 「貴方がお隣りに越して来たというのは、何もわしが頼んだ訳ではありませんからね」と老人はことさら静かな口調でいった。「あの欅の老樹は貴方が生まれる前からあそこに立っていて春が来ると葉を付け冬になるとその葉を散らして来た。わずか三年前にのこのこやって来て、その木を伐ってくれなどと身勝手とも何とも神を恐れぬ言い草ではないか」と吾助老人はサラリーマン氏を追い帰した。それから後彼はもう一度老人の家を訪ねて来たが老人は相手にしなかった。

 ここから市会議員氏が登場することになる。「丸山さんは私に頼んで来たのですがね、私だって相手にしてはもらえませんでしたよ。あの頑固さには参りました」と市会議員氏は嘆息した。

 お坊さんの読経が終ったので、村田医師は失礼して先に帰ることにした。戸外に出ると素晴らしい月夜であった。吾助老人のおかげで伐ることをまぬがれた二本の欅の老樹は空いっぱいに枝を広げていた。

 (老人が亡くなってあの老樹は、これから先どれくらい、あの素晴らしい枝をひろげていられることだろうか)村田医師はふとそんなことを考えていた。
                                                               笹本治郎(フリーライター)

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